日本舞踊のイメージ。

裕福でないとできない趣味よね・・・

先の投稿、お稽古継続。 にも書いたのですが以前にとある行事でご一緒した初対面の方との会話の中で言われた言葉がこれです。

その方は長く日本舞踊を稽古されていた方のようで温習会にも出られていたそうで、退職を機に稽古場を離れられて、つくづくこう感じられたようでした。

「もう存分に貢献したからいいの、悔いはない。」

と言ってはおられましたが、わたしはその方の中に踊りたい気持ちが残っているのでは・・・と感じてしまいずっとモヤモヤしています。


さて、お仕事はと問われて「日舞指導をしています」と答えると。

ほぼ必ず「日本舞踊ってお金がかかるのでしょう??」と問われます。
正直うんざりしていますが、これが現実で事実な面もあるので受け留めざるを得ません。

その問いには「はい。掛けようと思えば上限が無いほど掛けることは可能です。」と自虐気味に回答し、続けて必ず「然し乍ら。掛けずに習うことも踊ることも、また可能です。」と言ってニッコリするようにしています。

イメージが定着した理由。

画像にある書籍は、わたしが師範試験の受験勉強をしている時期に参考資料として読んでいたものです。

その当時は師範試験に筆記科目がありました。
既に、その科目は廃止されて久しいので詳細は省きますが、その頃(30年前)は熱心に本を読みレポートにまとめ自分なりの試験対策資料を作っていました。

久しぶりに、この2冊を手に取ってめくってみて。
そこに、日本舞踊に対するイメージが定着した理由らしき記述があったので書き留めておきます。


まずは、おどりの歩みから。

日本舞踊が基礎に据えている「歌舞伎舞踊」を<古典舞踊>としている。

この歌舞伎舞踊の誕生は戦国時代の後。戦国時代のうっぷんのはけ口や喜びの表現として人々が風流踊に熱狂した。

歌舞伎発祥の地は京(南座の脇に記念碑がある)で、河原にかけ小屋で興行をかけた中に出雲阿国(いずものおくに)が登場する。

風流踊旋風の中から生まれた女芸人の風流踊の一団は、舶来風俗を取り入れた男装をし流行のおどりを見せた。

関ヶ原合戦の後、訪れた平和に自由解放の機運に乗じ、女芸人は公衆の前での興行により社会進出を果たす。

阿国を中心とした「かぶき踊」は人々を魅了し、爆発的な人気を博す。

阿国の芸をまねる、たくさんのお国が遊女の中に生まれ、それは客をひいたので風紀上幕府に禁じられる。

代わって若衆かぶきが登場する、が、そちらも風紀を乱すという理由で全面的に禁止される。

その後、若衆が舞台に立つことを禁じられ成人男子に限るとされた。

若衆のスターが、そのまま女方(女形)に移行する。

たびたび幕府の抑圧で歌舞伎が演劇の本道を歩きはじめると、舞踊にも大きな転機がおとずれる。

<おどり>にも<舞>にもなかった<ふり>という要素が入ってくる。

<ふり>は物真似や演劇的要素が多く、これが加わってから初期の「かぶき踊」とは異なる独自の様式が確立して所作事とよばれるようになった。

玄人から素人が日本舞踊をおどるようになった流れ。

今日の日本舞踊の流派は200近い(1988年時点)(2019年現在では減少傾向か)

江戸時代の俳優や振付師を流祖と仰いでいるところが多い。

元祖は中村(伝次郎)、ついで藤間(勘兵衛)、続いて西川(扇藏)、少し遅れて市山(七十郎)。

その後、振付師が稽古場を構えおどりを教え、花柳・若柳が誕生する。

ほか舞踊の名人と称えられた三世坂東三津五郎、三世中村歌右衛門らの俳優を流祖とする流派や、その教えを受けたお狂言系の女師匠たちの流派もある。

「おどり子」いわゆる玄人で遊興の席に出る娘たちに、おどりを教える需要があった。

その後、素人娘たちにも稽古をするものが多くなり街の稽古所が大繁盛した(18世紀中頃)

江戸の経済の実権が町人に移り、豪商たちは何らかの手蔓で娘を武家奉公にあげた。

町人の娘が武家屋敷に上がるのは、おどり・音曲の一芸に秀でることが唯一の近道だったので、舞踊の稽古が一般庶民に広まった。

(日本舞踊につきまとう趣味の稽古事というイメージがつきまとう理由か)

江戸の庶民の最大の楽しみであったお祭りの、附祭(つけまつり)と呼ばれた芸能が、娘たちの晴れの舞台になった。

表の舞踊史の裏側で女性たちが日本舞踊を支えていた(踊り手・おどり師匠)

のちに明治維新の波を乗り越え伝統の芸をたずさえて歌舞伎界に大きな影響を与えた。

(いずれも講談社【日本舞踊の世界】西形節子著からの要約)

以上が簡単なおどりの歩みと日本舞踊の稽古場の変遷と、なぜ高級な趣味とイメージされるのかについての簡単なまとめです。

その当時、寺子屋に通うのは豪商の子息子女に限っていたでしょうし、男子は商いについて学んだりしていたのを女子は花嫁修行と称して、茶の湯に生け花・箏などの音曲に踊りの稽古をしていたであろうことは容易に想像がつきます。

武家屋敷に上がるのは職業婦人として、というより、良縁に恵まれることを期待してという面が強かったように感じます。

それを叶えるために一芸に秀でていることがメリットになった、となれば、自ずと稽古にも力が入った(親の方が)ことは想像に難くありません。

わたしの子どもの頃、40年以上前の頃ですが、そのあたりでも入門するのは親や祖父母の代に蓄財があったり、経営者の子どもだったりと、ある程度お金に不自由のない環境の家から通ってきていたように思います。

習うだけならいざ知らず、3年のようなスパンで大きな発表会(舞踊会・温習会)が催されていたので、それに掛けることができたのは特別な存在だったでしょう。

わたしは、たまたま家の(親の)仕事がこれでしたので、そういうものだと知らずに過ごして嫌々ながら踊らされてきました。

今でも以前のことを振り返ると、実に不思議な時代だった(それが当たり前だった)と妙な感慨があります。


時代が昭和から平成、令和と移り変わり。

バブルが弾け不景気となって久しく消費税は増税される一方で所得は増さず、年金は減額となり。

先行きは不透明で不安定、老後を思えば憂いしかないこの世の中で。

この仕事、「日舞指導者」を生業としている自分にとって。
逆境、逆風であることには違いないのですが。

そこを逆手に取って生き残ってみたい、という思いが強くなる今日この頃です。

人が、お金が掛かるといえば。
掛けないでも、できることを証明したい。

日本舞踊は退屈といわれれば、
案外楽しいと言わせたい。

元来の天邪鬼と人が右を向けば左というへそ曲がりなわたしだからこそ、できるアピールがある。
そんな気がします。

今回はザックリとした考察に止まったので、次は、わが稽古所でしている工夫などについて書こうと思います。